カテゴリー: 自分を変える

  • 「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    久しぶりに、服を見て胸が高鳴った。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールを見ながら戻ってきたのは、ファッションへの興味だけではなかった。美しいものを純粋に楽しむこと、そして人生を楽しむことに、いつの間にか条件をつけていた自分に気づいた。

    暫くの間ライフステージに変化があり、ファッション情報を自分に入れていなかったせいか、欲しい、というのとも少し違う。着たい、だけでもない。ただただ、美しいものをもっと見ていたい。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールの映像を見ながら、そんな感覚が身体の奥から戻ってくるのを感じた。

    ちょうど私は、これまでとは少し違う「第2の人生」に目を向け始めたころだった。とはいえ、気分はまだ晴れたり曇ったり。これから何をしたいのか、どう生きていきたいのか。頭では前を向いているつもりでも、心は完全には追いついていなかったころ。

    そんなとき、たまたま目にした二つのオートクチュールショー。

    百花繚乱。

    そんな言葉が浮かんだ。

    ファンタジー、ユーモア、少しの狂気。そして、これでもかというほどの「美」。

    ファッションが、もう一度夢になった

    マチュー・ブレイジーによるCHANELには、おとぎ話のような世界が広がっていた。ツイードを模したジョーゼットには花が咲き、羽根や刺繍、ジュエルボタンが踊る。デニムのように見えるツイード、手作業でプリーツを施した軽やかなウールのガーゼ。CHANELが今回のコレクションを「一つひとつのシルエットが物語を織りなす」と表現しているように、見慣れたはずのメゾンのシンボルたちが、別の物質へ変身していくようだった。

    重厚であるはずのものが軽く、伝統的であるはずのものがいたずらっぽい、そして大胆なコスチュームジュエリー。見ているだけなのに、こちらまで少し自由になったような気がする。

    一方、ジョナサン・アンダーソンによるDIORは、アメリカ人彫刻家リンダ・ベングリスの作品への応答から生まれているとのことで、平面的な素材を、結ぶ、折る、プリーツをかける、成形することで立体へ変えていくというベングリスの造形の美だった。それをクチュールの言語へ置き換えて、布が身体の上で彫刻のように変化していく・・・。DIOR自身も、今回のコレクションを「素材と形を別の角度から見る」試みとして紹介している。

    鳥、花、扇を思わせるフォルムや、軽く、弾み、生命を持ったような作品たち。

    二つのメゾンに共通して感じたのは、「変身」だったように思う。

    素材が別のものに見えたり、伝統が懐古ではなく、新しいモノとして提案され、単なる衣服であることをやめ、ひとつの物語になっていく・・・。

    なぜか私は、ジョン・ガリアーノ時代のDiorを思い出した。

    もちろん、似ているという意味ではない。

    私が思い出したのは、服の中に物語や演劇性が宿り、現実と幻想との境界線が少し曖昧になる、あの感覚だった。

    「洋服って、ここまでやっていいんだ!」とそんな嬉しい驚きがあった。

    「必要ではないもの」を、真剣につくる

    オートクチュールについて考えるとき、もうひとつ忘れたくないことがある。

    それは、凄まじい理想とそこに注ぎ込まれる途方もない時間と、人の手だ。

    言わずもがな、オートクチュールは単に「非常に高価なオーダードレス」というだけではない。

    フランスのオートクチュールを支えるFHCM(Fédération de la Haute Couture et de la Mode)は、その重要な条件としてアトリエのサヴォワールフェール、手仕事、個別性を挙げている。DIORも現在のオートクチュールを、卓越した技術によって創造的なアイディアを実現しながら、フランスのクチュールの伝統を守る「ラボラトリー」と位置づけている。

    刺繍する。
    プリーツを作る。
    羽根を扱う。
    布を裁ち、縫い、一人の身体に合わせて、速く、正確に、仕立てていく。

    AIや効率化があらゆる場所で語られる今、何百時間という時間をかけて、必ずしも「必要」ではない美しいものをつくること。

    なんという贅沢。そして同時に、なんという人間らしさだろう。人間の熱を感じずにはいられない。

    人間の手でしか生まれない揺らぎや執念や遊び心を、未来へ手渡そうとする意思。オートクチュールのランウェイは、もしかすると「選ばれた人のためのオーダードレス」を発表する場所であると同時に、現代に残された動く美術館のようなものなのかもしれない。

    そして不思議なことに、そんな途方もなく手間のかかった服を見ていたら、私は少し救われた。

    The Fear of Enjoying Life

    なぜ私は、あれほど心を動かされたのだろう。

    単にコレクションや発想が美しかったから、だけではない気がする。

    ランウェイでは、「余計なマインドはいらない。ただ、こんなに美しくしていい」と言っているように見えた。

    そこで初めて、自分の中に謎のルールがあったことに気づいた。

    • 楽しむのは、やるべきことを終えてから。
    • 安心できる条件が整ってから。
    • 苦労した後のご褒美として楽しむ。
    • 純粋に楽しむ、という言葉には、どこか子どものような無邪気さがあって、大人はもう少し現実的でなくてはいけない。

    誰に言われたわけでもない。

    それなのに私はいつの間にか、人生を楽しむことにまで条件をつけていたらしく、楽しみたいのに、楽しむことを少し怖がっている自分がいたと気が付いた。

    でも、あのオートクチュールコレクションを見ながら思ったのだ。

    「楽しい」は、苦労を終えた人だけに渡される報酬ではない。

    綺麗!
    面白い!
    もっと見たい!
    着てみたい!

    それは全部、今この瞬間に生きている身体から出てくる素直な反応だった。

    楽しい=生きているこの瞬間。

    そう設定し直してしまえばいいと、今更ながら腑に落ちた。

    夢中だったときを、思い出す

    そして、もうひとつ嬉しいことが起きた。学生時代の自分を思い出したのだ。

    毎週楽しみにしていたテレビ番組『ファッション通信』。

    世界のトップメゾンのコレクションを夢中で見て、それぞれのデザイナーがショーの最後に姿を現すところまで見届ける。そして国内ファッションジャーナリストの祖、大内順子さんの総括を聞く。私の記憶の中の大内さんは、ファッションを単なる流行として批評するのではなく、文化として慈しんでいるような方だった。気品があって、ファッション産業全体を包み込むような肯定的な眼差しがあった。

    そうだった、私は、こういう世界が大好きだった・・・。

    新しい自分になった、というよりも、好きだった自分が戻ってきたような感じ。そして好きだったものを思い出すことは、こんなにもあったかい気持ちになる。

    自分という作品を、もう一度編集する

    装いや見た目を変えると、少しタイムラグがあって、内側まで変わっていくような感覚がある。

    髪型を変える。着たことのない色を着る。少し大胆なジュエリーをつける。いつもなら選ばない靴を履く。

    ファッションは、スタイルを持つこととも、TPOをわきまえることとも少し違う、もっと身近な、自分を表現する手段であり、美学の実験なのだと思っている。その結果、スタイルを持った素敵なひとになるイメージ(違うかもしれないけれど)。

    オートクチュールで生まれた色やシルエットやアイディアは、そのまま私たちのクローゼットへ降りてくるわけではないけれど、その精神なら取り入れられる。

    「今日は少し違う自分をやってみる」それだけでもいい。

    Instagramなど、インスタントな世界をスクロールすれば、毎日何千もの美しい画像を見ることができるのに、指を止めるだけでなく、自分の生き方まで少し変えたくなるような美に出会うことは、そう多くない。

    今回、CHANELとDIORのショーが私にくれたのは、そんな種類の目覚めだった。

    人生を芸術作品にする、なんて言うと、少し(だいぶ?)大げさかもしれない・・・

    でも、

    何を着るか。

    何を見るか。

    どこへ行くか。

    誰と話すか。

    何に心を動かされるか。

    そんな小さな選択を、自分の美意識でひとつずつ選び直していくことなら、たった今からできる。

    変わらなくてはいけない、のではない。

    変わってもいい。遊んでもいい。

    自分という作品を、その日の気分で何度でも編集していい。

    あのオートクチュールを見ながら、私は久しぶりにそう思った。

    もっともっと楽しんでいい。

    というより、

    楽しむのは、今から。

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  • 50歳、私を創り直す美的文脈

    50歳、私を創り直す美的文脈

    一日が慌ただしく過ぎていく中で、気づけば自分自身の選択が後回しになっている。50歳を機に考えたのは、人生を大きく変えることではなく、「自分にとっての本物」をもう一度選び直すことでした。

    一日が、驚くほど速く終わってしまう。

    朝、何を着るか考え、メッセージに返事をし、仕事をし、誰かの予定に合わせ、買い物をし、夕食をとる。読みたかった本には手が伸びず、気になっていた展覧会の会期はいつの間にか終わっている。

    ちゃんと生きているはずなのに、ときどき、自分の人生を少し離れた場所から眺めているような気持ちになる。

    私は50歳になった。

    この数字を前にしたとき、若く見えたいとは、あまり思わなかった。

    むしろ思ったのは、これからはもう少し、自分にとって本物だと思えるものだけを選んで生きてみたい、ということだった。

    Cafe imaで私が書きたいと思っている「美的文脈」とは、単に美しいものを愛でることではない。

    ジュエリー、モード、旅、アート、そして人生。

    目に見えているものの奥には、いつも何かがある。

    一粒の宝石の背後には、時代の権力や恋愛や職人の技術がある。ひとつのドレスのシルエットの奥には、その時代の女性観や身体観がある。古い街の石畳には、そこで暮らしてきた人々の記憶が重なっている。

    美しさとは、表面だけに存在するものではない。

    背景にある歴史や思想、感情を知ったとき、目の前のものは急に立体的になる。

    そして50歳を前にして気づいた。

    人生にもまた、文脈があるのだと。

    たとえば、毎日着る洋服の色。

    私は仕事でも(気づいたらプライベートでも…)、長いあいだ白やネイビー、グレーを選ぶことが多かった。

    清潔感があり、知的で、信頼感もある。目的に適っているし、何も間違ってはいない。

    けれど、いつの間にかそれは「選択」ではなく、「クセ」になっていた。

    なぜ私はこれを選ぶのだろう。

    本当に好きだからなのか。

    それとも、仕事をする女性とはこうあるべきだという、どこかで身につけた価値観が選んでいるのか。

    最近、今までなら手に取らなかったようなジャケットに惹かれることがある。

    色は決して派手ではない。

    けれど肩のラインに少しドラマがあり、襟元にクチュールの気配がある。クチュールテイストもオバサマ的なものではなく、高級メゾンの香りを感じるもの。

    TPOを壊すわけではない。

    ただ、「無難」の境界線から数センチだけ外へ出る。

    それを着たときに感じるのは、「似合う」という満足よりも、もっと身体的なものだ。

    胸の奥が少し高揚する。

    同時に、肩から余計な力が抜けていく。

    私はこれを着てもいい。

    そんな小さな許可が、身体の中に広がっていく。

    不思議なのは、お相手は意外なほど気にしていないことだ。

    むしろビジネスの場であっても、節度を持って自分を表現している人に、周囲は思っている以上に寛大なのかもしれない。

    私たちを縛っていたものの一部は、社会そのものではなく、自分の中に取り込んでしまった「社会」なのではないか。

    そう考えると、50歳という年齢が少し面白くなってくる。

    若い頃は、四方八方に可能性を増やそうとしていた。

    何ができるのか。

    どこまで行けるのか。

    何者になれるのか。

    けれど、これからは違うのかもしれない。

    可能性を増やすよりも、自分に課してきた禁止事項を減らしていく。

    華やかでいてもいい。

    野心を持ってもいい。

    静かな午後を過ごしてもいい。

    仕事とライフを創ることをきれいに分けなくてもいい。

    私は何者か、一言で言えなくてもいい。

    知らない街で暮らしてみたいと思ってもいい。

    「今さら」と誰かが言いそうなことを、これから始めてもいい。

    50歳とは、何かを諦め始める年齢ではなく、自分に許可を出し始める年齢なのかもしれない。

    そしてその許可は、大きな決断だけではなく、小さなところから始まる。

    今日、何を着るのか。

    誰と会うのか。

    どこへ行くのか。

    何を断るのか。

    どこで立ち止まるのか。

    何に心が動いたのか。

    人生とは、結局こうした小さな選択の集積なのだと思う。

    一日は、人生の最小単位だ。

    だから人生を創り直すということも、実際にはそれほど劇的なことではないのかもしれない。

    自分の選択の背景を読み直し、これは本当に私のものだろうか、と問い直す。

    そして違うと思ったら、少し変えてみる。

    人生を創り直すとは、別人になることではない。

    ずっと自分の中にあったものを、ようやく外へ出していくことなのだと思う。その帰結として、まるで別人のようになるのだ。

    若さには、可能性という美しさがある。

    けれど年齢を重ねることには、選別という美しさがある。

    何が好きかだけではなく、何が自分ではないかも、以前よりよくわかる。

    それは失うことではなく、輪郭がはっきりしていくことなのだろう。

    50歳からの贅沢とは、たくさん持つことではないのかもしれない。

    自分にとって本物ではないものを、持たなくてよくなること。

    そして、本当に美しいと思うものを、もう遠慮せず選べること。

    人生の第二幕。

    完成させたいとは思わない。

    むしろ、これからもっと編集していきたい。

    ジュエリーやモードやアートを見るように、自分自身の人生の背景も読みながら。

    何を残すのか。

    何を手放すのか。

    そして、これから何を許すのか。

    その問いを持ちながら生きること。

    それが今の私にとっての「美的文脈」なのだと思う。