Three Minutes at the Mirror: Do We Really See Ourselves?
何十年も、毎朝鏡を見ている。
けれど、本当に「見て」いるだろうか。
視線はただ通り過ぎていた…
いつもの通り歯を磨き、お化粧しながら、髪を整えながら、私たちは毎朝、鏡の前に立つ。
けれど、そのとき視線はたいてい顔の上を通り過ぎているだけだ。過去の出来事(たいていイヤなことだったりする)とか今日これからのシミュレーションとか、週末することなどが頭をよぎっている。
それでも、自動的に、肌の色ムラは隠せたか、寝ぐせは直っているか確認はしている。でもそれは「点検」であって、「対話」ではない。
鏡の中の自分と、最後にきちんと目を合わせたのは、いつだっただろう。
見ることと、見つめること
「見る」と「見つめる」は、違う。見るとは、情報を受け取ること。見つめるとは、相手の存在に、心を向けること。
鏡を見つめると、いろいろなことに気づく。昨日より少し疲れた目元。照明の当たり方で変わる肌の色と影。表情筋はゆるんでいるのか、こわばっているのか。写っているワタシは、幸せそう?周りの人たちを幸せにできる?
突然気になったシミ、実はしばらく前からあったものでは?朝はシワも少し深く見えるけど、今日はなぜか特にひどいな…なんて変化を「見て」いるはずなのだけれど。
物事は突然起こらない。そう知っていたはずなのに、なんとなく生きていると、変化を認識するときはすでにかなり進んでいるのが常。
お顔だけでなく、例えば病気など、事によっては、応急処置が必要とすると余分な消耗、時間とコストもかかる。それなのに、頭の中ではのんきに、友人と会うときに、話しのネタになるかなと、思ったりする。
自分の身体は毎日観察しないといけないのだ。観察の多さは美しさと比例する。
それに気づいてから(いや本当は知っていた。そして本当のところは小さな危機感のお陰と言える。)、朝鏡の前で身支度する間の3分間を、一日の始まりの儀式に変えた。(時間の感覚としては、初めてのルーティンなどはとりあえず3分としてみると取り入れやすいと感じたので、ここは人によって違うかもしれない。)
装う前に、まず自分を見つめる時間を確保する。それは、絵を描く前に、白いキャンバスの様子を確かめることに似ている。
すこし大げさに表現しているかもしれない。けれど、特別な道具も、決まった作法もいらない。同じ動作に、意味を与える、たったそれだけ。
鏡の中の、もうひとり
鏡は、他人の目を借りる道具でもある。
外に出れば、私たちは他人の目に映る。その最初の目撃者として、鏡の中の自分を置いてみる。この人は、今日、誰に会うのだろう。どんな一日を過ごすのだろう。
そう思って見つめると、不思議と、直すべき場所と、そのままでいい場所が、はっきりしてくる。
最後に、鏡の中の自分へ、心の中で一言かける。「いってきます」でも、「今日もよろしく」でもいい。自分にきちんと挨拶できる人は、他人にも、丁寧に挨拶できるようになる気がする。
副産物としてはジワーっと湧き上がる幸福感がついてくる。
3分間の作法
特別なことは、何もない。この世に私しか存在していないくらいの3分にする。
全身を映して、数秒だけ、目を合わせる。そして、私を観察する。仕上げに、ピアスなどアクセサリーを身に付ける。個人的にピアスをハイライトしているのは、ピアスが顔の一部だからだ。
3分間は、カウントすると長いかもしれないけれど、観察するとあっという間に過ぎている。
自分を見つめた朝と、見なかった朝では、一日の背筋が、少し違う。
品格とは、自分をきちんと扱うという、小さな習慣の積み重ねなのだと、改めて思う。
鏡の前の3分間が、その日の品格を決める。
ブログをお読みくださりありがとうございます。Substackも覗いてみていただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします!

