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  • 50歳は年齢ではなく、軸の名前だった

    50歳は年齢ではなく、軸の名前だった

    “50” isn’t an age—for me, it is the name of an axis.

    もう少し、年齢に触れたいとおもいます。

    ある日ふと、気づくことがあります。
    少し前まであれほど気にしていたことが、もう気にならない。
    反対に、以前は素通りしていたものが、妙に心に残る。
    私はそれを「年を取ったから」だと思っていました。
    けれど、どうやら違うようなのです。
    変わったのは年齢という数字ではなく、物事を選ぶときに無意識に使っている物差しのほうでした。

    物差しは、いつも外にあった

    マスメディアの全盛期に幼少期を過ごした私たちは、若い頃から、たくさんの物差しを渡されてきました。

    思い返してみると、物差しはテレビや雑誌含む広告(雑誌は広告ですが)の影響は本当に大きかったのだなと、今再認識します。

    読む雑誌でその人がわかるカテゴライズすることもしばしば。私は小学生のころ姉の雑誌JJを読んでいたので、そんな影響もあったかもしれませんネ。。

    人からどう見えるか。役割にふさわしいか。周りと比べてどうか。いま何が正解とされているか。理想像に近づいているか…

    どれも、社会のなかで暮らしていくには必要な物差しです。服を選ぶときも、仕事を受けるときも、人と会うときも、気づけばその物差しを当てて、「大丈夫」と確かめていました。

    そして多くの場合、その物差しは自分の外側にあります。

    ある時期から、物差しが内側へ移った

    多くのケースで40-50歳という節目の前後の印象がありますが、この物差しが静かに持ち替わることがあるのは興味深いです。

    「若く見えるか」ではなく、「この布の質感が好きか」。
    「流行っているから」ではなく、「十年後も手に取るか」。
    「断ったら悪いかしら」ではなく、「優先すべきことは何か、あるいはこの時間は、私にとって豊かか」。

    同じ場面でも、問いの向きが変わります。外へ向いていた目が、内へ戻ってくる。私はこの変化を、軸が移ると呼びたいと思っています。

    「50歳」は、軸につけられた名前

    なぜ「50歳」なのでしょう?

    それは、この転換が起こりやすい節目に、たまたま「50歳」という名前がついているからだと思います。42歳で移る人もいれば、58歳で初めて気づく人もいるでしょう。年齢は誰にとっても同じ速度で進みますが、軸が移るタイミングは、人の数だけあります。

    だから私は、50歳を「老いの入口」とは呼びません(笑)。それは、特に私にとっては、自分の物差しを、自分の手に取り戻す年の名前です。

    変わるのは、若さではなく、成熟の使い道

    よく「年齢を重ねても若々しく」と言われます。その言葉に背筋を伸ばす日もあります。けれど、Cafe-imaが見つめたいのは、若さを守る話ではありません。

    軸が内側に移ると、選ぶものが変わり、買うものが変わり、会う人が変わります。そして、そのひとつひとつが、その人だけの品格になっていく。成熟は、失うものではなく、選び抜くための資産なのだと思います。

    そうやって自分自身が研ぎ澄まされていく感覚は、なかなか気持ちの良いものですね。

    これからの Cafe-ima

    このマガジンでは、装うこと、美しいものを見ること、旅をすること、手放して編集することを、「軸が移ったあとの暮らし」という視点で綴っていきます。

    年齢を問わず、男性も女性も、ご自身の物差しを探している方に読んでいただけたらとても嬉しいです。

    次の記事では、軸が移ったあとに起こるもっとも大きな変化、「見る目」が育つことについて書きます。

  • 50代からの品格は、鏡の前の3分間に宿る

    50代からの品格は、鏡の前の3分間に宿る

    Three Minutes at the Mirror: Do We Really See Ourselves?

    何十年も、毎朝鏡を見ている。
    けれど、本当に「見て」いるだろうか。

    視線はただ通り過ぎていた…

    いつもの通り歯を磨き、お化粧しながら、髪を整えながら、私たちは毎朝、鏡の前に立つ。
    けれど、そのとき視線はたいてい顔の上を通り過ぎているだけだ。過去の出来事(たいていイヤなことだったりする)とか今日これからのシミュレーションとか、週末することなどが頭をよぎっている。

    それでも、自動的に、肌の色ムラは隠せたか、寝ぐせは直っているか確認はしている。でもそれは「点検」であって、「対話」ではない。

    鏡の中の自分と、最後にきちんと目を合わせたのは、いつだっただろう。

    見ることと、見つめること

    「見る」と「見つめる」は、違う。見るとは、情報を受け取ること。見つめるとは、相手の存在に、心を向けること。

    鏡を見つめると、いろいろなことに気づく。昨日より少し疲れた目元。照明の当たり方で変わる肌の色と影。表情筋はゆるんでいるのか、こわばっているのか。写っているワタシは、幸せそう?周りの人たちを幸せにできる?

    突然気になったシミ、実はしばらく前からあったものでは?朝はシワも少し深く見えるけど、今日はなぜか特にひどいな…なんて変化を「見て」いるはずなのだけれど。

    物事は突然起こらない。そう知っていたはずなのに、なんとなく生きていると、変化を認識するときはすでにかなり進んでいるのが常。

    お顔だけでなく、例えば病気など、事によっては、応急処置が必要とすると余分な消耗、時間とコストもかかる。それなのに、頭の中ではのんきに、友人と会うときに、話しのネタになるかなと、思ったりする。

    自分の身体は毎日観察しないといけないのだ。観察の多さは美しさと比例する。

    それに気づいてから(いや本当は知っていた。そして本当のところは小さな危機感のお陰と言える。)、朝鏡の前で身支度する間の3分間を、一日の始まりの儀式に変えた。(時間の感覚としては、初めてのルーティンなどはとりあえず3分としてみると取り入れやすいと感じたので、ここは人によって違うかもしれない。) 

    装う前に、まず自分を見つめる時間を確保する。それは、絵を描く前に、白いキャンバスの様子を確かめることに似ている。

    すこし大げさに表現しているかもしれない。けれど、特別な道具も、決まった作法もいらない。同じ動作に、意味を与える、たったそれだけ。

    鏡の中の、もうひとり

    鏡は、他人の目を借りる道具でもある。
    外に出れば、私たちは他人の目に映る。その最初の目撃者として、鏡の中の自分を置いてみる。この人は、今日、誰に会うのだろう。どんな一日を過ごすのだろう。

    そう思って見つめると、不思議と、直すべき場所と、そのままでいい場所が、はっきりしてくる。

    最後に、鏡の中の自分へ、心の中で一言かける。「いってきます」でも、「今日もよろしく」でもいい。自分にきちんと挨拶できる人は、他人にも、丁寧に挨拶できるようになる気がする。

    副産物としてはジワーっと湧き上がる幸福感がついてくる。

    3分間の作法

    特別なことは、何もない。この世に私しか存在していないくらいの3分にする。
    全身を映して、数秒だけ、目を合わせる。そして、私を観察する。仕上げに、ピアスなどアクセサリーを身に付ける。個人的にピアスをハイライトしているのは、ピアスが顔の一部だからだ。

    3分間は、カウントすると長いかもしれないけれど、観察するとあっという間に過ぎている。

    自分を見つめた朝と、見なかった朝では、一日の背筋が、少し違う。
    品格とは、自分をきちんと扱うという、小さな習慣の積み重ねなのだと、改めて思う。

    鏡の前の3分間が、その日の品格を決める。

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  • 50歳、私を創り直す美的文脈

    50歳、私を創り直す美的文脈

    一日が慌ただしく過ぎていく中で、気づけば自分自身の選択が後回しになっている。50歳を機に考えたのは、人生を大きく変えることではなく、「自分にとっての本物」をもう一度選び直すことでした。

    一日が、驚くほど速く終わってしまう。

    朝、何を着るか考え、メッセージに返事をし、仕事をし、誰かの予定に合わせ、買い物をし、夕食をとる。読みたかった本には手が伸びず、気になっていた展覧会の会期はいつの間にか終わっている。

    ちゃんと生きているはずなのに、ときどき、自分の人生を少し離れた場所から眺めているような気持ちになる。

    私は50歳になった。

    この数字を前にしたとき、若く見えたいとは、あまり思わなかった。

    むしろ思ったのは、これからはもう少し、自分にとって本物だと思えるものだけを選んで生きてみたい、ということだった。

    Cafe imaで私が書きたいと思っている「美的文脈」とは、単に美しいものを愛でることではない。

    ジュエリー、モード、旅、アート、そして人生。

    目に見えているものの奥には、いつも何かがある。

    一粒の宝石の背後には、時代の権力や恋愛や職人の技術がある。ひとつのドレスのシルエットの奥には、その時代の女性観や身体観がある。古い街の石畳には、そこで暮らしてきた人々の記憶が重なっている。

    美しさとは、表面だけに存在するものではない。

    背景にある歴史や思想、感情を知ったとき、目の前のものは急に立体的になる。

    そして50歳を前にして気づいた。

    人生にもまた、文脈があるのだと。

    たとえば、毎日着る洋服の色。

    私は仕事でも(気づいたらプライベートでも…)、長いあいだ白やネイビー、グレーを選ぶことが多かった。

    清潔感があり、知的で、信頼感もある。目的に適っているし、何も間違ってはいない。

    けれど、いつの間にかそれは「選択」ではなく、「クセ」になっていた。

    なぜ私はこれを選ぶのだろう。

    本当に好きだからなのか。

    それとも、仕事をする女性とはこうあるべきだという、どこかで身につけた価値観が選んでいるのか。

    最近、今までなら手に取らなかったようなジャケットに惹かれることがある。

    色は決して派手ではない。

    けれど肩のラインに少しドラマがあり、襟元にクチュールの気配がある。クチュールテイストもオバサマ的なものではなく、高級メゾンの香りを感じるもの。

    TPOを壊すわけではない。

    ただ、「無難」の境界線から数センチだけ外へ出る。

    それを着たときに感じるのは、「似合う」という満足よりも、もっと身体的なものだ。

    胸の奥が少し高揚する。

    同時に、肩から余計な力が抜けていく。

    私はこれを着てもいい。

    そんな小さな許可が、身体の中に広がっていく。

    不思議なのは、お相手は意外なほど気にしていないことだ。

    むしろビジネスの場であっても、節度を持って自分を表現している人に、周囲は思っている以上に寛大なのかもしれない。

    私たちを縛っていたものの一部は、社会そのものではなく、自分の中に取り込んでしまった「社会」なのではないか。

    そう考えると、50歳という年齢が少し面白くなってくる。

    若い頃は、四方八方に可能性を増やそうとしていた。

    何ができるのか。

    どこまで行けるのか。

    何者になれるのか。

    けれど、これからは違うのかもしれない。

    可能性を増やすよりも、自分に課してきた禁止事項を減らしていく。

    華やかでいてもいい。

    野心を持ってもいい。

    静かな午後を過ごしてもいい。

    仕事とライフを創ることをきれいに分けなくてもいい。

    私は何者か、一言で言えなくてもいい。

    知らない街で暮らしてみたいと思ってもいい。

    「今さら」と誰かが言いそうなことを、これから始めてもいい。

    50歳とは、何かを諦め始める年齢ではなく、自分に許可を出し始める年齢なのかもしれない。

    そしてその許可は、大きな決断だけではなく、小さなところから始まる。

    今日、何を着るのか。

    誰と会うのか。

    どこへ行くのか。

    何を断るのか。

    どこで立ち止まるのか。

    何に心が動いたのか。

    人生とは、結局こうした小さな選択の集積なのだと思う。

    一日は、人生の最小単位だ。

    だから人生を創り直すということも、実際にはそれほど劇的なことではないのかもしれない。

    自分の選択の背景を読み直し、これは本当に私のものだろうか、と問い直す。

    そして違うと思ったら、少し変えてみる。

    人生を創り直すとは、別人になることではない。

    ずっと自分の中にあったものを、ようやく外へ出していくことなのだと思う。その帰結として、まるで別人のようになるのだ。

    若さには、可能性という美しさがある。

    けれど年齢を重ねることには、選別という美しさがある。

    何が好きかだけではなく、何が自分ではないかも、以前よりよくわかる。

    それは失うことではなく、輪郭がはっきりしていくことなのだろう。

    50歳からの贅沢とは、たくさん持つことではないのかもしれない。

    自分にとって本物ではないものを、持たなくてよくなること。

    そして、本当に美しいと思うものを、もう遠慮せず選べること。

    人生の第二幕。

    完成させたいとは思わない。

    むしろ、これからもっと編集していきたい。

    ジュエリーやモードやアートを見るように、自分自身の人生の背景も読みながら。

    何を残すのか。

    何を手放すのか。

    そして、これから何を許すのか。

    その問いを持ちながら生きること。

    それが今の私にとっての「美的文脈」なのだと思う。