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  • 楽しむ、を忘れていませんか

    楽しむ、を忘れていませんか

    It takes intelligence to be truly playful

    知性は、自由に遊ぶためにある

    生きている間のほとんどの時間、どこかいつも「見られる私」でした。どう映るか、どう評価されるか。装うことも、働くことも、誰かの目を意識していたように思います。

    ほんの最近気づいたのは(やっと呪いが解けた感じです)、何かを手放したというより、視線の向きが静かに入れ替わったことです。つまり、見られる側から、見る側へ。

    不思議なことに、見る側に回ると、世界の解像度が上がります。ピアスの小さな細工、職人さんの手の動き、人の笑顔の温度。見られることに使っていたエネルギーが、見ることへ戻ってきたからでしょう。

    見えるようになったからこそ、次の問いが生まれます。では、この世界をどう味わいつくそうか。

    それは、「楽しい!」という時間に生きると決めること。

    そういえば、毎日あっという間に過ぎ去り、楽しい!ってなってること、すぐに思い出せない…となっていませんか?私はなっていました。

    楽しむには、「楽しい」に解像度を上げていくと面白そうです。

    言葉を幅広く持つことは有効です。

    例えば、英語で「楽しむ」は細やかに使い分けます。

    • Enjoy:ごく広く、好ましく受け取ること
    • Have fun:場の賑わい、軽やかさ、遊び心
    • Appreciate:価値を理解して、深く味わうこと
    • Savor:ひと口を惜しむように、ゆっくり噛みしめること

    日本語にも、同じ読みで二つの文字がありますよね。「楽しむ」と「愉しむ」。一般に、楽は明るく外へ開く楽しさ、愉は心(りっしんべん)に満ちてくる静かな悦びと説明されます。賑やかな宴が「楽」なら、一杯のお茶を前にした静かな時間は「愉」。

    この違いがわかると、世界は一気に広がります。楽しい場所を探し続けなくても、愉しみは自分の内側で起こせるからです。

    「遊び」のないものは、壊れやすい

    ここで、「遊び」という言葉に少し寄り道をさせてください。

    車を運転する人なら、ハンドルの「遊び」を知っているでしょう。ハンドルを少し回しても、タイヤがすぐには動かない、わずかな余裕です。これがまったくないと、ほんの小さな動きにも車が過敏に反応して、かえって運転しにくく、危なくなります。

    建築も同じです。橋には、気温で伸び縮みする分の隙間(伸縮装置)がわざと設けられています。隙間がなければ、熱で膨らんだ鉄は逃げ場を失い、橋そのものを傷めてしまいます。日本の伝統的な木造建築も、釘や金物で固めきるのではなく、木を組み合わせて、わずかな動きを許すことで揺れを受け流してきました。固めきらないことが、強さになる。

    プロダクトの世界でも、部品どうしの「すきま」(クリアランス)がなければ、そもそも組み立てることも、動かすこともできません。

    きちんと機能するものほど、遊びを持っている。余白のないものは、強そうに見えて、実は脆い。

    人も、同じではないでしょうか。頑張り屋さんほど、予定も、役割も、気持ちも、隙間なくきっちり詰めてしまいます。でも遊びのない人は、予期せぬ衝撃を受けたとき、逃げ場がなくて、折れてしまう。

    楽しむことは、人生のハンドルの「遊び」であり、橋の伸縮装置のようなものです。余分に見えて、いちばん大切なものを守っている。

    ラテン語圏の「楽しむ」を旅する

    ラテン語の系譜をたどると、「楽しむ」の言葉はとても豊かです。

    イタリア語

    • godere:楽しむ、享受する。ラテン語の gaudere(喜ぶ)に由来。「人生を享受する」という大人の響き
    • assaporare:味わい尽くす。sapore(味)が語源の、Savorにいちばん近い言葉
    • divertirsi:気晴らしに遊ぶ。軽やかなHave fun
    • dolce far niente:「何もしないことの甘美さ」。余白そのものを楽しむ、イタリアの知恵

    スペイン語

    • disfrutar:心ゆくまで楽しむ
    • saborear:味わう。そして saber は「知っている」と「味がする」の両方を意味します

    フランス語

    • savourer:味わう
    • se régaler:ごちそうを楽しむように、全身で満喫する
    • jouir:享受する。人生の悦びを受け取る、深い言葉

    そしてすべての源流、ラテン語には、こんな対比があります。

    • otium(オティウム):教養ある余暇。ただ休むのではなく、学び、考え、味わう自由な時間
    • negotium(ネゴティウム):オティウムの否定、つまり仕事・商売。英語の negotiation の語源です

    古代ローマの人にとって、仕事とは「余暇ではないもの」でした。余暇のほうが主役だったのです。

    「遊び」を意味する ludus(ルードゥス)は、同時に「学びの場(初等学校)」も指しました。遊ぶことと学ぶことは、もともと別のものではなかったのです。illusion や prelude も、ludere(遊ぶ)と同じ語根を持つ言葉です。

    さらに、キリスト教思想家アウグスティヌスは、uti(役立てる、利用する)と frui(それ自体を喜びとして味わう)を区別しました。何かの手段として使うのではなく、それ自体のために味わうこと。「愉しむ」の核心は、2000年近く前から語られていたのです。

    もうひとつ、おもしろい発見があります。sapere は「味がする」であり「賢い」でもあります。味わえる人は、賢い人。味覚と知性は、同じ根っこから伸びていました。

    頑張り屋さんにいちばん難しいこと

    ここからが、私が本当に書きたかったことです。

    頑張り屋さんにとって、いちばん難しいのは、頑張ることではなく、楽しむことです。

    頑張ることには、目標があり、成果があり、評価があります。けれど楽しむことには、目標がありません。uti(役立てる)に慣れた人にとって、frui(ただ味わう)は、何も生み出さない時間に感じられて落ち着かないのです。

    そして楽しむことは、意外に高度な遊びです。そして今の時代には贅沢ともいえます。

    • 余裕がなければ、味わう間がありません
    • 教養がなければ、味わう対象の価値が見えません。ワインの産地も、器の歴史も、傘職人の仕事も、知っているほど深く愉しめます
    • アンテナの感度がなければ、日常に潜む美しいものを拾えません

    つまり「楽しむ」とは、余裕と教養と感度を総動員する、大人のための遊びです。オティウムが「教養ある余暇」だったのは、偶然ではありません。

    見る私だから、愉しめる

    「見られる私」だった頃は、評価を気にして、楽しむどころではありませんでした。「見る私」になった今、ようやく世界の側に立てます。

    だから、頑張り屋さんが楽しむ人になれる入口は、案外ここにあるのだと思うのです。

    今日の私への小さな実験を、ひとつ。

    何かをひと口、ひと目、ひと触れ、評価せずに、役立てようともせずに、ただ味わってみる。
    そして今日の予定に、遊びをひとつ。

    今朝の一杯のコーヒーでも、耳元で揺れるピアスの重みでも。assaporare、saborear、savourer。言葉はちがっても、やることは同じです。

    見る私は、愉しむ私。遊びを持った人生は、折れずに、しなやかに、もっと広く、もっと楽しくなっていきます。

    最後までお読みくださりありがとうございます!

  • 「見る」を意識したら、世界が細かくなったー美術館で、足が止まる場所が変わったー

    「見る」を意識したら、世界が細かくなったー美術館で、足が止まる場所が変わったー

    How to develop an eye for beauty

    ほんとうに、見ている?

    個人的な感覚ですが、見る、視る、はなんとなく2D的で、観るは3D的な気がしますし、じっと何かを観察するって、お茶しながら人間観察くらいしかしていないかもしれません。私はジュエリーが好きなのでずーっと眺めていられる時もあるものの、残念ながら観察力の高さはイコールではないと思います。最近美術展に行った際の気づきから、あらためて「見る」という動詞に興味をもったのです。なぜならば、このブログのコアな部分である、“自分をオブザーブできる能力を高める”ことにもつながっていると思うからなのです。

    足が止まる場所が、変わった

    あくまでも例のひとつとして、知覚の話です。                             たとえば美術展などに入ると、たいていは、決まって最初からひとつずつ、なんとなく遠目から近くから順番に見て、人だかりが大きくてなかなか動かない話題の作品の前でタイミングを見計らう。混雑していれば周囲を見計らう方が作品を見るより頭を使ったりしてしまいます。それでも展覧会の代表となる大作は、評価の定まった作品ゆえにそこに立つと、「ちゃんと見た」という安心が得られた気もして満足度を高めます。

    ところがいつの頃からか、足が止まる場所が変わりました。人の列から少し離れた壁の、小さな一点の前。理由は自分でもうまく説明できません。ただ、そこで目が動かなくなる。

    私はこの変化を、軸が外から内へ移ったしるしだと思っています。

    (もちろん名作はタイミングを見てじっくりと観賞します。)

    「見られる私」の目は、確かめるため?

    過去を思い返してみて、見られる側にいた頃の目は、おそらく「確かめる」ために働いていました。これは名作だと言われている。だから、いいに違いない。目の前のものを味わうより先に、既存の評価の物差しに当てて、間違っていないことを確認する。

    それは決して悪いことではありません。世の中の「いい」を学ぶ、大切な段階です。けれど、そこでの目は、いつも少しだけ、誰かの視線を気にしています。

    「見る私」になると、世界が細かくなる

    物差しが内側に移ると、目は「確かめる」仕事から解放されます。すると不思議なことに、見えるものが細かくなる気がするのです。

    • 青みがかった白と、黄みを帯びた白など、ニュアンスの違いや素材によっても違う。
    • 布の影の落ち方で、素材の重さが伝わる。
    • 何も描かれていない余白が、実は一番よく語っている。
    • 絵画であれば、モチーフ、人物の視線などあらゆるエレメントの「なぜ」の入り口

    これらは新しい知識ではなく、ずっとそこにあったものなのに、以前の私は、見ているつもりで、見ていなかった。「見る私」になったのは、知識も増え、見えるものが増えたからではなく、“見る時間を、自分のために使えるようになったから”。

    審美眼は、止まる時間の積み重ね

    審美眼と聞くと、センスの良い人の目線ように感じるかもしれません。けれど私は、それは“足を止めた回数の記録”だと思っています。

    気になって立ち止まる。理由は分からなくてもいい。もう一度戻って見る。そんな小さな繰り返しが、少しずつ「自分は何に惹かれるのか」を輪郭のある形にしていけると感じます。

    だから、知識から入らなくても大丈夫です。説明文は、あとで読めばいい。先に、自分の目でよく見てみましょう。

    細かい世界 ⇄ 全体像 = 世界が広がる

    この目は、美術館を出てからも働きます。美術展のチケットのフォントに興味を持ち、展覧会全体に思いを馳せる。カフェでカップの取っ手のフィット感にぐっと目を寄せたかと思えば、店全体の光と空気をすっと眺める。すれ違う人のユニークなジャケットに目を留めて、そのまま、歩く姿へ目を引いていく。朝の窓辺の光から、夕方の街の色まで、日常のあちこちで足が止まるようになります。

    ちょっと目線で遊ぶ感じです。 

    近づいては離れ、離れては近づく。その行き来のなかで、細部は全体に意味を与え、全体は細部を生かします。

    装うことも、同じだと思います。ボタン一つの艶と、全身の佇まい。どちらか片方だけでは、決まりません。細部と全体を行き来する目が育つほど、選ぶものは静かに洗練されていき、豊かな生き方につながると思うのです。言い換えれば、世界が細かくなる、ということは、毎日が少しずつ豊かになる、ということです。特別な場所へ行かなくても、見る目が一つ育つたびに、同じ景色が違って見える。とってもクリエイティブで楽しいことだと思います。

    ブログをお読みくださりありがとうございます。

    Cafe Ima – About me

  • 50歳は年齢ではなく、軸の名前だった

    50歳は年齢ではなく、軸の名前だった

    “50” isn’t an age—for me, it is the name of an axis.

    もう少し、年齢に触れたいとおもいます。

    ある日ふと、気づくことがあります。
    少し前まであれほど気にしていたことが、もう気にならない。
    反対に、以前は素通りしていたものが、妙に心に残る。
    私はそれを「年を取ったから」だと思っていました。
    けれど、どうやら違うようなのです。
    変わったのは年齢という数字ではなく、物事を選ぶときに無意識に使っている物差しのほうでした。

    物差しは、いつも外にあった

    マスメディアの全盛期に幼少期を過ごした私たちは、若い頃から、たくさんの物差しを渡されてきました。

    思い返してみると、物差しはテレビや雑誌含む広告(雑誌は広告ですが)の影響は本当に大きかったのだなと、今再認識します。

    読む雑誌でその人がわかるカテゴライズすることもしばしば。私は小学生のころ姉の雑誌JJを読んでいたので、そんな影響もあったかもしれませんネ。。

    人からどう見えるか。役割にふさわしいか。周りと比べてどうか。いま何が正解とされているか。理想像に近づいているか…

    どれも、社会のなかで暮らしていくには必要な物差しです。服を選ぶときも、仕事を受けるときも、人と会うときも、気づけばその物差しを当てて、「大丈夫」と確かめていました。

    そして多くの場合、その物差しは自分の外側にあります。

    ある時期から、物差しが内側へ移った

    多くのケースで40-50歳という節目の前後の印象がありますが、この物差しが静かに持ち替わることがあるのは興味深いです。

    「若く見えるか」ではなく、「この布の質感が好きか」。
    「流行っているから」ではなく、「十年後も手に取るか」。
    「断ったら悪いかしら」ではなく、「優先すべきことは何か、あるいはこの時間は、私にとって豊かか」。

    同じ場面でも、問いの向きが変わります。外へ向いていた目が、内へ戻ってくる。私はこの変化を、軸が移ると呼びたいと思っています。

    「50歳」は、軸につけられた名前

    なぜ「50歳」なのでしょう?

    それは、この転換が起こりやすい節目に、たまたま「50歳」という名前がついているからだと思います。42歳で移る人もいれば、58歳で初めて気づく人もいるでしょう。年齢は誰にとっても同じ速度で進みますが、軸が移るタイミングは、人の数だけあります。

    だから私は、50歳を「老いの入口」とは呼びません(笑)。それは、特に私にとっては、自分の物差しを、自分の手に取り戻す年の名前です。

    変わるのは、若さではなく、成熟の使い道

    よく「年齢を重ねても若々しく」と言われます。その言葉に背筋を伸ばす日もあります。けれど、Cafe-imaが見つめたいのは、若さを守る話ではありません。

    軸が内側に移ると、選ぶものが変わり、買うものが変わり、会う人が変わります。そして、そのひとつひとつが、その人だけの品格になっていく。成熟は、失うものではなく、選び抜くための資産なのだと思います。

    そうやって自分自身が研ぎ澄まされていく感覚は、なかなか気持ちの良いものですね。

    これからの Cafe-ima

    このマガジンでは、装うこと、美しいものを見ること、旅をすること、手放して編集することを、「軸が移ったあとの暮らし」という視点で綴っていきます。

    年齢を問わず、男性も女性も、ご自身の物差しを探している方に読んでいただけたらとても嬉しいです。

    次の記事では、軸が移ったあとに起こるもっとも大きな変化、「見る目」が育つことについて書きます。

  • 装いという礼儀は、まだ会っていない誰かへの手紙

    装いという礼儀は、まだ会っていない誰かへの手紙

    A Letter to Someone Not Yet Met: Dressing as Courtesy

    装いは、自分のためだけのものだろうか。
    玄関を出る前に、装いはもう、相手に届いている?

    何十年と様々なオケージョンで装いを楽しんできたから、TPOもわきまえているつもり、でした。

    それなのに、人生後半が見えてきたあたりから、本当に大人として、装いをわかっているのか不安に思えてきたのです。装うことは、“経験年数は長いのに実はわかっていないこと”の一つかもしれません(ここではあくまでも自分自身へベクトルを向けているのでご了承ください。)。

    そもそも装うとは、個人の印象や佇まいをトータルでデザインするイメージであり、社会に対する配慮も表すこと。一方でファッションはというと、言わずもがな時代の中で取り入れられる流行であり、両者の違いは、装いは内面が出るトータルデザイン、ファッションは社会現象や時代のスタイルで、個人的な思いからエッセンスを取り入れる、といったところかもしれません。

    会食(特に夜)が予定されている日の朝。
    今日会う人は、どんな立場で、どんなスタイルが好きだろう。レストランの空気感はどんな様子で、テーブルではどんな話をするだろう。そうそう、器やお料理を口に運ぶときに邪魔にならないデザインのあのワンピースも候補かな…などと思い浮かべながら服を選ぶ、楽しい時間ですよね。

    その時間は、自分のためというより、まだ会っていない相手のために使っているのですね。

    言葉より先に届くもの

    実は、会った瞬間、私たちは相手の装い(意図)を、無意識のうちに読んでいます。
    ほんの一瞬のこと。けれど、その一瞬に、「あなたに会うのを楽しみにしていました」という気持ちが、伝わってきて、わたしの配慮も伝わるといいな、とその場の空気が明るくなります。

    装いは、手紙に似ている

    便箋を選び、封筒を選び、丁寧に文字を書く。内容は同じでも、封を開ける前から、送り手の気持ちは、もう伝わっていると感じます。装いも同じではないでしょうか。言葉を発する前に届く、無言の手紙です。だから、年月をかけてゆっくり育ててきた感性を十分に発揮できる、大人としての遊びを楽しむ人でありたい。

    僭越ながら付け加えてさせていただくと、礼儀というと、着飾ることだと思われがちですが、ときには、引くことのほうが深い敬意になることは忘れずにいたいですね。
    たとえば機会に応じて、強い香りや音の鳴る装身具を控える。自分を主張するより、その場と相手に、静かに寄り添う。それもまた、装いの礼儀のひとつです。

    過剰と無関心のあいだで

    もうひとつ、未だに悩んでしまう洋服選びがあります。

    カジュアル~洗練スタイルの間が、意外にもバランスが問われる気がしています。わかりやすい例では、気軽な集まりに、あらたまりすぎた装いで行けば、相手を緊張させてしまう。

    逆に、何も考えずに出かければ、「あなたのことは考えていません」という無言の手紙になってしまうこともある。

    これが上手な人が、”センスのいいひと”なのだと思います。センスがいい方にあったら、自分に取り入れられそうなことを吸収します。

    大切なことは、相手と場所を思い浮かべること。その一点があれば、シャツとパンツにピアスひとつでも、それは立派な礼儀になる。

    もし友人に会うのであれば、お互い共通の思い出の品も、素敵な時間を作ってくれます。例えばこんな風に。


    その日、彼女は十年ぶりに、旧友と会う約束をしていた。
    選んだのは、特別な服ではなかった。ただ、友人がずっと前に「きれいな色ね」と言ってくれた、深い赤のスカーフを、そっと首元に巻いた。

    待ち合わせの場所で、友人は彼女の首元を見て、少し笑った。
    「それ、覚えてる」

    言葉にしなかった手紙が、ちゃんと届いていた。


    想像力は筋トレのようなもの

    ここでこそ、発揮したい想像力。鍛え続けなければ、筋力と同じで、たるみます。

    装う前に、少しだけ、相手の顔を思い浮かべてみる。それだけで、いつもの服が、丁寧な言葉に変わる。もしかしたら、これから新しく会う人にも贈る言葉になるかもしれない。

    装うとは、まだ会っていない誰かへの、無言の手紙だったと気づいたのでした。

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  • 指先の美学 ― 耳元に触れる、その3秒

    指先の美学 ― 耳元に触れる、その3秒

    The Art of the Fingertip : Putting on an earring

    装う、という動詞が好きだ。その中でもいくつかハイライトしたい具体的な動詞があって、その一つが、ピアスを付けるということ。その仕草が始まる合図は、髪を耳にかけること。小さな金属を耳元に留める三秒の間に、私たちは少しだけ、別の自分になっていく瞬間が楽しい。

    髪を耳にかける

    鏡の前に立ち、まず、髪を耳にかける。
    たったそれだけの動作で、空気が変わる。顔の輪郭があらわになり、「これから、何かを身につける」という合図が、静かに部屋に落ちる。

    装うという行為は、服を選ぶよりも前に、もう始まっているのだと思う。

    三秒の手仕事

    ピアスを手に取る。指先でつまむと、驚くほど軽い。
    耳たぶにそっと触れ、穴の位置を探る。ポストを通し、耳の後ろへ回した指で、キャッチを確定して留める。

    鏡が映すのは、耳の前側だけ。留める場所は、見えない耳の後ろにある。だから私たちは、目を閉じるようにして、指先の感覚に身をゆだねる。カチリ、などと小さな手応えがあったとき、ようやく息を吐く。

    時間にすれば、たったの三秒。けれど、この三秒は急げない。慌てれば、金具は指からするっと逃げていく。ゆっくりと丁寧に向き合う人にだけ、小さな光は、静かに留まってくれる気がする。

    いつもの朝

    その日、わたしは友人との食事を控えていた。
    新しい服を買ったわけではない。特別ななにかを用意したわけでもない。ただ、引き出しの奥にしまっていた小さなダイヤのピアスを、そっと取り出した。

    鏡の前で、髪を耳にかける。耳たぶに触れ、金具を留める。
    顔を上げると、耳元に、ちいさな光があった。

    背筋が、ほんの少しだけ伸びていた。
    口角が、ほんの少し上がっていた。

    昨日と同じような服の傾向で、同じ顔。それなのに、鏡の中の自分は、昨日より少しだけ、凛としていた(これも、気がする)。でも、このような一連の動作がたまらなく、生きている気さえするのだ。

    見えない場所を、手探りで

    装う仕草は、ピアスやイヤリング(最近はイヤーカフ?)だけではない。
    首の後ろでネックレスの留め具を探す指。腕時計のバックルを通す手首の角度。指先から手袋をはめていく、ゆっくりとした動き。シャツの袖口にカフリンクスを通す仕草も、そのひとつだろう。

    どれも、共通していることがある。
    見えない場所を、手探りで、静かに整えていくこと。

    エレガントさは、仕草に宿る

    誰かに見せるためなら、仕草は省略できる。
    それでも私たちは、鏡の前で、ゆっくりと指を動かす。それは、自分自身と向き合うための特別な時間だからだ。

    エレガンスとは、完成した姿だけを指す言葉ではないのかもしれないと、ふと思う。
    装うと決めた時間の、その丁寧さの中にこそ、宿るもの。

    服が私たちを変えるのではない。
    丁寧に装うと決めた三秒が、私たちを、少しずつ変えていく。  それが、Transformationなのだと思う。

    今日から・・・

    次にピアスを付けるとき、ほんの少しだけ、ゆっくりと。
    耳元に触れる三秒を、味わってみてほしい。

    小さな宝飾品には、ひとつずつ、大きな物語がある。その扉は、これからこの連載の先で、少しずつ開いていきたいと思う。

    エレガンスは、耳元に触れる、その三秒に宿る。

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  • 「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    久しぶりに、服を見て胸が高鳴った。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールを見ながら戻ってきたのは、ファッションへの興味だけではなかった。美しいものを純粋に楽しむこと、そして人生を楽しむことに、いつの間にか条件をつけていた自分に気づいた。

    暫くの間ライフステージに変化があり、ファッション情報を自分に入れていなかったせいか、欲しい、というのとも少し違う。着たい、だけでもない。ただただ、美しいものをもっと見ていたい。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールの映像を見ながら、そんな感覚が身体の奥から戻ってくるのを感じた。

    ちょうど私は、これまでとは少し違う「第2の人生」に目を向け始めたころだった。とはいえ、気分はまだ晴れたり曇ったり。これから何をしたいのか、どう生きていきたいのか。頭では前を向いているつもりでも、心は完全には追いついていなかったころ。

    そんなとき、たまたま目にした二つのオートクチュールショー。

    百花繚乱。

    そんな言葉が浮かんだ。

    ファンタジー、ユーモア、少しの狂気。そして、これでもかというほどの「美」。

    ファッションが、もう一度夢になった

    マチュー・ブレイジーによるCHANELには、おとぎ話のような世界が広がっていた。ツイードを模したジョーゼットには花が咲き、羽根や刺繍、ジュエルボタンが踊る。デニムのように見えるツイード、手作業でプリーツを施した軽やかなウールのガーゼ。CHANELが今回のコレクションを「一つひとつのシルエットが物語を織りなす」と表現しているように、見慣れたはずのメゾンのシンボルたちが、別の物質へ変身していくようだった。

    重厚であるはずのものが軽く、伝統的であるはずのものがいたずらっぽい、そして大胆なコスチュームジュエリー。見ているだけなのに、こちらまで少し自由になったような気がする。

    一方、ジョナサン・アンダーソンによるDIORは、アメリカ人彫刻家リンダ・ベングリスの作品への応答から生まれているとのことで、平面的な素材を、結ぶ、折る、プリーツをかける、成形することで立体へ変えていくというベングリスの造形の美だった。それをクチュールの言語へ置き換えて、布が身体の上で彫刻のように変化していく・・・。DIOR自身も、今回のコレクションを「素材と形を別の角度から見る」試みとして紹介している。

    鳥、花、扇を思わせるフォルムや、軽く、弾み、生命を持ったような作品たち。

    二つのメゾンに共通して感じたのは、「変身」だったように思う。

    素材が別のものに見えたり、伝統が懐古ではなく、新しいモノとして提案され、単なる衣服であることをやめ、ひとつの物語になっていく・・・。

    なぜか私は、ジョン・ガリアーノ時代のDiorを思い出した。

    もちろん、似ているという意味ではない。

    私が思い出したのは、服の中に物語や演劇性が宿り、現実と幻想との境界線が少し曖昧になる、あの感覚だった。

    「洋服って、ここまでやっていいんだ!」とそんな嬉しい驚きがあった。

    「必要ではないもの」を、真剣につくる

    オートクチュールについて考えるとき、もうひとつ忘れたくないことがある。

    それは、凄まじい理想とそこに注ぎ込まれる途方もない時間と、人の手だ。

    言わずもがな、オートクチュールは単に「非常に高価なオーダードレス」というだけではない。

    フランスのオートクチュールを支えるFHCM(Fédération de la Haute Couture et de la Mode)は、その重要な条件としてアトリエのサヴォワールフェール、手仕事、個別性を挙げている。DIORも現在のオートクチュールを、卓越した技術によって創造的なアイディアを実現しながら、フランスのクチュールの伝統を守る「ラボラトリー」と位置づけている。

    刺繍する。
    プリーツを作る。
    羽根を扱う。
    布を裁ち、縫い、一人の身体に合わせて、速く、正確に、仕立てていく。

    AIや効率化があらゆる場所で語られる今、何百時間という時間をかけて、必ずしも「必要」ではない美しいものをつくること。

    なんという贅沢。そして同時に、なんという人間らしさだろう。人間の熱を感じずにはいられない。

    人間の手でしか生まれない揺らぎや執念や遊び心を、未来へ手渡そうとする意思。オートクチュールのランウェイは、もしかすると「選ばれた人のためのオーダードレス」を発表する場所であると同時に、現代に残された動く美術館のようなものなのかもしれない。

    そして不思議なことに、そんな途方もなく手間のかかった服を見ていたら、私は少し救われた。

    The Fear of Enjoying Life

    なぜ私は、あれほど心を動かされたのだろう。

    単にコレクションや発想が美しかったから、だけではない気がする。

    ランウェイでは、「余計なマインドはいらない。ただ、こんなに美しくしていい」と言っているように見えた。

    そこで初めて、自分の中に謎のルールがあったことに気づいた。

    • 楽しむのは、やるべきことを終えてから。
    • 安心できる条件が整ってから。
    • 苦労した後のご褒美として楽しむ。
    • 純粋に楽しむ、という言葉には、どこか子どものような無邪気さがあって、大人はもう少し現実的でなくてはいけない。

    誰に言われたわけでもない。

    それなのに私はいつの間にか、人生を楽しむことにまで条件をつけていたらしく、楽しみたいのに、楽しむことを少し怖がっている自分がいたと気が付いた。

    でも、あのオートクチュールコレクションを見ながら思ったのだ。

    「楽しい」は、苦労を終えた人だけに渡される報酬ではない。

    綺麗!
    面白い!
    もっと見たい!
    着てみたい!

    それは全部、今この瞬間に生きている身体から出てくる素直な反応だった。

    楽しい=生きているこの瞬間。

    そう設定し直してしまえばいいと、今更ながら腑に落ちた。

    夢中だったときを、思い出す

    そして、もうひとつ嬉しいことが起きた。学生時代の自分を思い出したのだ。

    毎週楽しみにしていたテレビ番組『ファッション通信』。

    世界のトップメゾンのコレクションを夢中で見て、それぞれのデザイナーがショーの最後に姿を現すところまで見届ける。そして国内ファッションジャーナリストの祖、大内順子さんの総括を聞く。私の記憶の中の大内さんは、ファッションを単なる流行として批評するのではなく、文化として慈しんでいるような方だった。気品があって、ファッション産業全体を包み込むような肯定的な眼差しがあった。

    そうだった、私は、こういう世界が大好きだった・・・。

    新しい自分になった、というよりも、好きだった自分が戻ってきたような感じ。そして好きだったものを思い出すことは、こんなにもあったかい気持ちになる。

    自分という作品を、もう一度編集する

    装いや見た目を変えると、少しタイムラグがあって、内側まで変わっていくような感覚がある。

    髪型を変える。着たことのない色を着る。少し大胆なジュエリーをつける。いつもなら選ばない靴を履く。

    ファッションは、スタイルを持つこととも、TPOをわきまえることとも少し違う、もっと身近な、自分を表現する手段であり、美学の実験なのだと思っている。その結果、スタイルを持った素敵なひとになるイメージ(違うかもしれないけれど)。

    オートクチュールで生まれた色やシルエットやアイディアは、そのまま私たちのクローゼットへ降りてくるわけではないけれど、その精神なら取り入れられる。

    「今日は少し違う自分をやってみる」それだけでもいい。

    Instagramなど、インスタントな世界をスクロールすれば、毎日何千もの美しい画像を見ることができるのに、指を止めるだけでなく、自分の生き方まで少し変えたくなるような美に出会うことは、そう多くない。

    今回、CHANELとDIORのショーが私にくれたのは、そんな種類の目覚めだった。

    人生を芸術作品にする、なんて言うと、少し(だいぶ?)大げさかもしれない・・・

    でも、

    何を着るか。

    何を見るか。

    どこへ行くか。

    誰と話すか。

    何に心を動かされるか。

    そんな小さな選択を、自分の美意識でひとつずつ選び直していくことなら、たった今からできる。

    変わらなくてはいけない、のではない。

    変わってもいい。遊んでもいい。

    自分という作品を、その日の気分で何度でも編集していい。

    あのオートクチュールを見ながら、私は久しぶりにそう思った。

    もっともっと楽しんでいい。

    というより、

    楽しむのは、今から。

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