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  • 「見る」を意識したら、世界が細かくなったー美術館で、足が止まる場所が変わったー

    「見る」を意識したら、世界が細かくなったー美術館で、足が止まる場所が変わったー

    How to develop an eye for beauty

    ほんとうに、見ている?

    個人的な感覚ですが、見る、視る、はなんとなく2D的で、観るは3D的な気がしますし、じっと何かを観察するって、お茶しながら人間観察くらいしかしていないかもしれません。私はジュエリーが好きなのでずーっと眺めていられる時もあるものの、残念ながら観察力の高さはイコールではないと思います。最近美術展に行った際の気づきから、あらためて「見る」という動詞に興味をもったのです。なぜならば、このブログのコアな部分である、“自分をオブザーブできる能力を高める”ことにもつながっていると思うからなのです。

    足が止まる場所が、変わった

    あくまでも例のひとつとして、知覚の話です。                             たとえば美術展などに入ると、たいていは、決まって最初からひとつずつ、なんとなく遠目から近くから順番に見て、人だかりが大きくてなかなか動かない話題の作品の前でタイミングを見計らう。混雑していれば周囲を見計らう方が作品を見るより頭を使ったりしてしまいます。それでも展覧会の代表となる大作は、評価の定まった作品ゆえにそこに立つと、「ちゃんと見た」という安心が得られた気もして満足度を高めます。

    ところがいつの頃からか、足が止まる場所が変わりました。人の列から少し離れた壁の、小さな一点の前。理由は自分でもうまく説明できません。ただ、そこで目が動かなくなる。

    私はこの変化を、軸が外から内へ移ったしるしだと思っています。

    (もちろん名作はタイミングを見てじっくりと観賞します。)

    「見られる私」の目は、確かめるため?

    過去を思い返してみて、見られる側にいた頃の目は、おそらく「確かめる」ために働いていました。これは名作だと言われている。だから、いいに違いない。目の前のものを味わうより先に、既存の評価の物差しに当てて、間違っていないことを確認する。

    それは決して悪いことではありません。世の中の「いい」を学ぶ、大切な段階です。けれど、そこでの目は、いつも少しだけ、誰かの視線を気にしています。

    「見る私」になると、世界が細かくなる

    物差しが内側に移ると、目は「確かめる」仕事から解放されます。すると不思議なことに、見えるものが細かくなる気がするのです。

    • 青みがかった白と、黄みを帯びた白など、ニュアンスの違いや素材によっても違う。
    • 布の影の落ち方で、素材の重さが伝わる。
    • 何も描かれていない余白が、実は一番よく語っている。
    • 絵画であれば、モチーフ、人物の視線などあらゆるエレメントの「なぜ」の入り口

    これらは新しい知識ではなく、ずっとそこにあったものなのに、以前の私は、見ているつもりで、見ていなかった。「見る私」になったのは、知識も増え、見えるものが増えたからではなく、“見る時間を、自分のために使えるようになったから”。

    審美眼は、止まる時間の積み重ね

    審美眼と聞くと、センスの良い人の目線ように感じるかもしれません。けれど私は、それは“足を止めた回数の記録”だと思っています。

    気になって立ち止まる。理由は分からなくてもいい。もう一度戻って見る。そんな小さな繰り返しが、少しずつ「自分は何に惹かれるのか」を輪郭のある形にしていけると感じます。

    だから、知識から入らなくても大丈夫です。説明文は、あとで読めばいい。先に、自分の目でよく見てみましょう。

    細かい世界 ⇄ 全体像 = 世界が広がる

    この目は、美術館を出てからも働きます。美術展のチケットのフォントに興味を持ち、展覧会全体に思いを馳せる。カフェでカップの取っ手のフィット感にぐっと目を寄せたかと思えば、店全体の光と空気をすっと眺める。すれ違う人のユニークなジャケットに目を留めて、そのまま、歩く姿へ目を引いていく。朝の窓辺の光から、夕方の街の色まで、日常のあちこちで足が止まるようになります。

    ちょっと目線で遊ぶ感じです。 

    近づいては離れ、離れては近づく。その行き来のなかで、細部は全体に意味を与え、全体は細部を生かします。

    装うことも、同じだと思います。ボタン一つの艶と、全身の佇まい。どちらか片方だけでは、決まりません。細部と全体を行き来する目が育つほど、選ぶものは静かに洗練されていき、豊かな生き方につながると思うのです。言い換えれば、世界が細かくなる、ということは、毎日が少しずつ豊かになる、ということです。特別な場所へ行かなくても、見る目が一つ育つたびに、同じ景色が違って見える。とってもクリエイティブで楽しいことだと思います。

    ブログをお読みくださりありがとうございます。

    Cafe Ima – About me

  • 装いという礼儀は、まだ会っていない誰かへの手紙

    装いという礼儀は、まだ会っていない誰かへの手紙

    A Letter to Someone Not Yet Met: Dressing as Courtesy

    装いは、自分のためだけのものだろうか。
    玄関を出る前に、装いはもう、相手に届いている?

    何十年と様々なオケージョンで装いを楽しんできたから、TPOもわきまえているつもり、でした。

    それなのに、人生後半が見えてきたあたりから、本当に大人として、装いをわかっているのか不安に思えてきたのです。装うことは、“経験年数は長いのに実はわかっていないこと”の一つかもしれません(ここではあくまでも自分自身へベクトルを向けているのでご了承ください。)。

    そもそも装うとは、個人の印象や佇まいをトータルでデザインするイメージであり、社会に対する配慮も表すこと。一方でファッションはというと、言わずもがな時代の中で取り入れられる流行であり、両者の違いは、装いは内面が出るトータルデザイン、ファッションは社会現象や時代のスタイルで、個人的な思いからエッセンスを取り入れる、といったところかもしれません。

    会食(特に夜)が予定されている日の朝。
    今日会う人は、どんな立場で、どんなスタイルが好きだろう。レストランの空気感はどんな様子で、テーブルではどんな話をするだろう。そうそう、器やお料理を口に運ぶときに邪魔にならないデザインのあのワンピースも候補かな…などと思い浮かべながら服を選ぶ、楽しい時間ですよね。

    その時間は、自分のためというより、まだ会っていない相手のために使っているのですね。

    言葉より先に届くもの

    実は、会った瞬間、私たちは相手の装い(意図)を、無意識のうちに読んでいます。
    ほんの一瞬のこと。けれど、その一瞬に、「あなたに会うのを楽しみにしていました」という気持ちが、伝わってきて、わたしの配慮も伝わるといいな、とその場の空気が明るくなります。

    装いは、手紙に似ている

    便箋を選び、封筒を選び、丁寧に文字を書く。内容は同じでも、封を開ける前から、送り手の気持ちは、もう伝わっていると感じます。装いも同じではないでしょうか。言葉を発する前に届く、無言の手紙です。だから、年月をかけてゆっくり育ててきた感性を十分に発揮できる、大人としての遊びを楽しむ人でありたい。

    僭越ながら付け加えてさせていただくと、礼儀というと、着飾ることだと思われがちですが、ときには、引くことのほうが深い敬意になることは忘れずにいたいですね。
    たとえば機会に応じて、強い香りや音の鳴る装身具を控える。自分を主張するより、その場と相手に、静かに寄り添う。それもまた、装いの礼儀のひとつです。

    過剰と無関心のあいだで

    もうひとつ、未だに悩んでしまう洋服選びがあります。

    カジュアル~洗練スタイルの間が、意外にもバランスが問われる気がしています。わかりやすい例では、気軽な集まりに、あらたまりすぎた装いで行けば、相手を緊張させてしまう。

    逆に、何も考えずに出かければ、「あなたのことは考えていません」という無言の手紙になってしまうこともある。

    これが上手な人が、”センスのいいひと”なのだと思います。センスがいい方にあったら、自分に取り入れられそうなことを吸収します。

    大切なことは、相手と場所を思い浮かべること。その一点があれば、シャツとパンツにピアスひとつでも、それは立派な礼儀になる。

    もし友人に会うのであれば、お互い共通の思い出の品も、素敵な時間を作ってくれます。例えばこんな風に。


    その日、彼女は十年ぶりに、旧友と会う約束をしていた。
    選んだのは、特別な服ではなかった。ただ、友人がずっと前に「きれいな色ね」と言ってくれた、深い赤のスカーフを、そっと首元に巻いた。

    待ち合わせの場所で、友人は彼女の首元を見て、少し笑った。
    「それ、覚えてる」

    言葉にしなかった手紙が、ちゃんと届いていた。


    想像力は筋トレのようなもの

    ここでこそ、発揮したい想像力。鍛え続けなければ、筋力と同じで、たるみます。

    装う前に、少しだけ、相手の顔を思い浮かべてみる。それだけで、いつもの服が、丁寧な言葉に変わる。もしかしたら、これから新しく会う人にも贈る言葉になるかもしれない。

    装うとは、まだ会っていない誰かへの、無言の手紙だったと気づいたのでした。

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  • 50代からの品格は、鏡の前の3分間に宿る

    50代からの品格は、鏡の前の3分間に宿る

    Three Minutes at the Mirror: Do We Really See Ourselves?

    何十年も、毎朝鏡を見ている。
    けれど、本当に「見て」いるだろうか。

    視線はただ通り過ぎていた…

    いつもの通り歯を磨き、お化粧しながら、髪を整えながら、私たちは毎朝、鏡の前に立つ。
    けれど、そのとき視線はたいてい顔の上を通り過ぎているだけだ。過去の出来事(たいていイヤなことだったりする)とか今日これからのシミュレーションとか、週末することなどが頭をよぎっている。

    それでも、自動的に、肌の色ムラは隠せたか、寝ぐせは直っているか確認はしている。でもそれは「点検」であって、「対話」ではない。

    鏡の中の自分と、最後にきちんと目を合わせたのは、いつだっただろう。

    見ることと、見つめること

    「見る」と「見つめる」は、違う。見るとは、情報を受け取ること。見つめるとは、相手の存在に、心を向けること。

    鏡を見つめると、いろいろなことに気づく。昨日より少し疲れた目元。照明の当たり方で変わる肌の色と影。表情筋はゆるんでいるのか、こわばっているのか。写っているワタシは、幸せそう?周りの人たちを幸せにできる?

    突然気になったシミ、実はしばらく前からあったものでは?朝はシワも少し深く見えるけど、今日はなぜか特にひどいな…なんて変化を「見て」いるはずなのだけれど。

    物事は突然起こらない。そう知っていたはずなのに、なんとなく生きていると、変化を認識するときはすでにかなり進んでいるのが常。

    お顔だけでなく、例えば病気など、事によっては、応急処置が必要とすると余分な消耗、時間とコストもかかる。それなのに、頭の中ではのんきに、友人と会うときに、話しのネタになるかなと、思ったりする。

    自分の身体は毎日観察しないといけないのだ。観察の多さは美しさと比例する。

    それに気づいてから(いや本当は知っていた。そして本当のところは小さな危機感のお陰と言える。)、朝鏡の前で身支度する間の3分間を、一日の始まりの儀式に変えた。(時間の感覚としては、初めてのルーティンなどはとりあえず3分としてみると取り入れやすいと感じたので、ここは人によって違うかもしれない。) 

    装う前に、まず自分を見つめる時間を確保する。それは、絵を描く前に、白いキャンバスの様子を確かめることに似ている。

    すこし大げさに表現しているかもしれない。けれど、特別な道具も、決まった作法もいらない。同じ動作に、意味を与える、たったそれだけ。

    鏡の中の、もうひとり

    鏡は、他人の目を借りる道具でもある。
    外に出れば、私たちは他人の目に映る。その最初の目撃者として、鏡の中の自分を置いてみる。この人は、今日、誰に会うのだろう。どんな一日を過ごすのだろう。

    そう思って見つめると、不思議と、直すべき場所と、そのままでいい場所が、はっきりしてくる。

    最後に、鏡の中の自分へ、心の中で一言かける。「いってきます」でも、「今日もよろしく」でもいい。自分にきちんと挨拶できる人は、他人にも、丁寧に挨拶できるようになる気がする。

    副産物としてはジワーっと湧き上がる幸福感がついてくる。

    3分間の作法

    特別なことは、何もない。この世に私しか存在していないくらいの3分にする。
    全身を映して、数秒だけ、目を合わせる。そして、私を観察する。仕上げに、ピアスなどアクセサリーを身に付ける。個人的にピアスをハイライトしているのは、ピアスが顔の一部だからだ。

    3分間は、カウントすると長いかもしれないけれど、観察するとあっという間に過ぎている。

    自分を見つめた朝と、見なかった朝では、一日の背筋が、少し違う。
    品格とは、自分をきちんと扱うという、小さな習慣の積み重ねなのだと、改めて思う。

    鏡の前の3分間が、その日の品格を決める。

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  • 指先の美学 ― 耳元に触れる、その3秒

    指先の美学 ― 耳元に触れる、その3秒

    The Art of the Fingertip : Putting on an earring

    装う、という動詞が好きだ。その中でもいくつかハイライトしたい具体的な動詞があって、その一つが、ピアスを付けるということ。その仕草が始まる合図は、髪を耳にかけること。小さな金属を耳元に留める三秒の間に、私たちは少しだけ、別の自分になっていく瞬間が楽しい。

    髪を耳にかける

    鏡の前に立ち、まず、髪を耳にかける。
    たったそれだけの動作で、空気が変わる。顔の輪郭があらわになり、「これから、何かを身につける」という合図が、静かに部屋に落ちる。

    装うという行為は、服を選ぶよりも前に、もう始まっているのだと思う。

    三秒の手仕事

    ピアスを手に取る。指先でつまむと、驚くほど軽い。
    耳たぶにそっと触れ、穴の位置を探る。ポストを通し、耳の後ろへ回した指で、キャッチを確定して留める。

    鏡が映すのは、耳の前側だけ。留める場所は、見えない耳の後ろにある。だから私たちは、目を閉じるようにして、指先の感覚に身をゆだねる。カチリ、などと小さな手応えがあったとき、ようやく息を吐く。

    時間にすれば、たったの三秒。けれど、この三秒は急げない。慌てれば、金具は指からするっと逃げていく。ゆっくりと丁寧に向き合う人にだけ、小さな光は、静かに留まってくれる気がする。

    いつもの朝

    その日、わたしは友人との食事を控えていた。
    新しい服を買ったわけではない。特別ななにかを用意したわけでもない。ただ、引き出しの奥にしまっていた小さなダイヤのピアスを、そっと取り出した。

    鏡の前で、髪を耳にかける。耳たぶに触れ、金具を留める。
    顔を上げると、耳元に、ちいさな光があった。

    背筋が、ほんの少しだけ伸びていた。
    口角が、ほんの少し上がっていた。

    昨日と同じような服の傾向で、同じ顔。それなのに、鏡の中の自分は、昨日より少しだけ、凛としていた(これも、気がする)。でも、このような一連の動作がたまらなく、生きている気さえするのだ。

    見えない場所を、手探りで

    装う仕草は、ピアスやイヤリング(最近はイヤーカフ?)だけではない。
    首の後ろでネックレスの留め具を探す指。腕時計のバックルを通す手首の角度。指先から手袋をはめていく、ゆっくりとした動き。シャツの袖口にカフリンクスを通す仕草も、そのひとつだろう。

    どれも、共通していることがある。
    見えない場所を、手探りで、静かに整えていくこと。

    エレガントさは、仕草に宿る

    誰かに見せるためなら、仕草は省略できる。
    それでも私たちは、鏡の前で、ゆっくりと指を動かす。それは、自分自身と向き合うための特別な時間だからだ。

    エレガンスとは、完成した姿だけを指す言葉ではないのかもしれないと、ふと思う。
    装うと決めた時間の、その丁寧さの中にこそ、宿るもの。

    服が私たちを変えるのではない。
    丁寧に装うと決めた三秒が、私たちを、少しずつ変えていく。  それが、Transformationなのだと思う。

    今日から・・・

    次にピアスを付けるとき、ほんの少しだけ、ゆっくりと。
    耳元に触れる三秒を、味わってみてほしい。

    小さな宝飾品には、ひとつずつ、大きな物語がある。その扉は、これからこの連載の先で、少しずつ開いていきたいと思う。

    エレガンスは、耳元に触れる、その三秒に宿る。

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  • 「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    「楽しんでいい」と、オートクチュールが教えてくれた

    久しぶりに、服を見て胸が高鳴った。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールを見ながら戻ってきたのは、ファッションへの興味だけではなかった。美しいものを純粋に楽しむこと、そして人生を楽しむことに、いつの間にか条件をつけていた自分に気づいた。

    暫くの間ライフステージに変化があり、ファッション情報を自分に入れていなかったせいか、欲しい、というのとも少し違う。着たい、だけでもない。ただただ、美しいものをもっと見ていたい。CHANELとDIORの2026-27年秋冬オートクチュールの映像を見ながら、そんな感覚が身体の奥から戻ってくるのを感じた。

    ちょうど私は、これまでとは少し違う「第2の人生」に目を向け始めたころだった。とはいえ、気分はまだ晴れたり曇ったり。これから何をしたいのか、どう生きていきたいのか。頭では前を向いているつもりでも、心は完全には追いついていなかったころ。

    そんなとき、たまたま目にした二つのオートクチュールショー。

    百花繚乱。

    そんな言葉が浮かんだ。

    ファンタジー、ユーモア、少しの狂気。そして、これでもかというほどの「美」。

    ファッションが、もう一度夢になった

    マチュー・ブレイジーによるCHANELには、おとぎ話のような世界が広がっていた。ツイードを模したジョーゼットには花が咲き、羽根や刺繍、ジュエルボタンが踊る。デニムのように見えるツイード、手作業でプリーツを施した軽やかなウールのガーゼ。CHANELが今回のコレクションを「一つひとつのシルエットが物語を織りなす」と表現しているように、見慣れたはずのメゾンのシンボルたちが、別の物質へ変身していくようだった。

    重厚であるはずのものが軽く、伝統的であるはずのものがいたずらっぽい、そして大胆なコスチュームジュエリー。見ているだけなのに、こちらまで少し自由になったような気がする。

    一方、ジョナサン・アンダーソンによるDIORは、アメリカ人彫刻家リンダ・ベングリスの作品への応答から生まれているとのことで、平面的な素材を、結ぶ、折る、プリーツをかける、成形することで立体へ変えていくというベングリスの造形の美だった。それをクチュールの言語へ置き換えて、布が身体の上で彫刻のように変化していく・・・。DIOR自身も、今回のコレクションを「素材と形を別の角度から見る」試みとして紹介している。

    鳥、花、扇を思わせるフォルムや、軽く、弾み、生命を持ったような作品たち。

    二つのメゾンに共通して感じたのは、「変身」だったように思う。

    素材が別のものに見えたり、伝統が懐古ではなく、新しいモノとして提案され、単なる衣服であることをやめ、ひとつの物語になっていく・・・。

    なぜか私は、ジョン・ガリアーノ時代のDiorを思い出した。

    もちろん、似ているという意味ではない。

    私が思い出したのは、服の中に物語や演劇性が宿り、現実と幻想との境界線が少し曖昧になる、あの感覚だった。

    「洋服って、ここまでやっていいんだ!」とそんな嬉しい驚きがあった。

    「必要ではないもの」を、真剣につくる

    オートクチュールについて考えるとき、もうひとつ忘れたくないことがある。

    それは、凄まじい理想とそこに注ぎ込まれる途方もない時間と、人の手だ。

    言わずもがな、オートクチュールは単に「非常に高価なオーダードレス」というだけではない。

    フランスのオートクチュールを支えるFHCM(Fédération de la Haute Couture et de la Mode)は、その重要な条件としてアトリエのサヴォワールフェール、手仕事、個別性を挙げている。DIORも現在のオートクチュールを、卓越した技術によって創造的なアイディアを実現しながら、フランスのクチュールの伝統を守る「ラボラトリー」と位置づけている。

    刺繍する。
    プリーツを作る。
    羽根を扱う。
    布を裁ち、縫い、一人の身体に合わせて、速く、正確に、仕立てていく。

    AIや効率化があらゆる場所で語られる今、何百時間という時間をかけて、必ずしも「必要」ではない美しいものをつくること。

    なんという贅沢。そして同時に、なんという人間らしさだろう。人間の熱を感じずにはいられない。

    人間の手でしか生まれない揺らぎや執念や遊び心を、未来へ手渡そうとする意思。オートクチュールのランウェイは、もしかすると「選ばれた人のためのオーダードレス」を発表する場所であると同時に、現代に残された動く美術館のようなものなのかもしれない。

    そして不思議なことに、そんな途方もなく手間のかかった服を見ていたら、私は少し救われた。

    The Fear of Enjoying Life

    なぜ私は、あれほど心を動かされたのだろう。

    単にコレクションや発想が美しかったから、だけではない気がする。

    ランウェイでは、「余計なマインドはいらない。ただ、こんなに美しくしていい」と言っているように見えた。

    そこで初めて、自分の中に謎のルールがあったことに気づいた。

    • 楽しむのは、やるべきことを終えてから。
    • 安心できる条件が整ってから。
    • 苦労した後のご褒美として楽しむ。
    • 純粋に楽しむ、という言葉には、どこか子どものような無邪気さがあって、大人はもう少し現実的でなくてはいけない。

    誰に言われたわけでもない。

    それなのに私はいつの間にか、人生を楽しむことにまで条件をつけていたらしく、楽しみたいのに、楽しむことを少し怖がっている自分がいたと気が付いた。

    でも、あのオートクチュールコレクションを見ながら思ったのだ。

    「楽しい」は、苦労を終えた人だけに渡される報酬ではない。

    綺麗!
    面白い!
    もっと見たい!
    着てみたい!

    それは全部、今この瞬間に生きている身体から出てくる素直な反応だった。

    楽しい=生きているこの瞬間。

    そう設定し直してしまえばいいと、今更ながら腑に落ちた。

    夢中だったときを、思い出す

    そして、もうひとつ嬉しいことが起きた。学生時代の自分を思い出したのだ。

    毎週楽しみにしていたテレビ番組『ファッション通信』。

    世界のトップメゾンのコレクションを夢中で見て、それぞれのデザイナーがショーの最後に姿を現すところまで見届ける。そして国内ファッションジャーナリストの祖、大内順子さんの総括を聞く。私の記憶の中の大内さんは、ファッションを単なる流行として批評するのではなく、文化として慈しんでいるような方だった。気品があって、ファッション産業全体を包み込むような肯定的な眼差しがあった。

    そうだった、私は、こういう世界が大好きだった・・・。

    新しい自分になった、というよりも、好きだった自分が戻ってきたような感じ。そして好きだったものを思い出すことは、こんなにもあったかい気持ちになる。

    自分という作品を、もう一度編集する

    装いや見た目を変えると、少しタイムラグがあって、内側まで変わっていくような感覚がある。

    髪型を変える。着たことのない色を着る。少し大胆なジュエリーをつける。いつもなら選ばない靴を履く。

    ファッションは、スタイルを持つこととも、TPOをわきまえることとも少し違う、もっと身近な、自分を表現する手段であり、美学の実験なのだと思っている。その結果、スタイルを持った素敵なひとになるイメージ(違うかもしれないけれど)。

    オートクチュールで生まれた色やシルエットやアイディアは、そのまま私たちのクローゼットへ降りてくるわけではないけれど、その精神なら取り入れられる。

    「今日は少し違う自分をやってみる」それだけでもいい。

    Instagramなど、インスタントな世界をスクロールすれば、毎日何千もの美しい画像を見ることができるのに、指を止めるだけでなく、自分の生き方まで少し変えたくなるような美に出会うことは、そう多くない。

    今回、CHANELとDIORのショーが私にくれたのは、そんな種類の目覚めだった。

    人生を芸術作品にする、なんて言うと、少し(だいぶ?)大げさかもしれない・・・

    でも、

    何を着るか。

    何を見るか。

    どこへ行くか。

    誰と話すか。

    何に心を動かされるか。

    そんな小さな選択を、自分の美意識でひとつずつ選び直していくことなら、たった今からできる。

    変わらなくてはいけない、のではない。

    変わってもいい。遊んでもいい。

    自分という作品を、その日の気分で何度でも編集していい。

    あのオートクチュールを見ながら、私は久しぶりにそう思った。

    もっともっと楽しんでいい。

    というより、

    楽しむのは、今から。

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