楽しむ、を忘れていませんか

朝の窓辺でのコーヒー時間、光を受けながら香りを楽しむ女性

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It takes intelligence to be truly playful

知性は、自由に遊ぶためにある

生きている間のほとんどの時間、どこかいつも「見られる私」でした。どう映るか、どう評価されるか。装うことも、働くことも、誰かの目を意識していたように思います。

ほんの最近気づいたのは(やっと呪いが解けた感じです)、何かを手放したというより、視線の向きが静かに入れ替わったことです。つまり、見られる側から、見る側へ。

不思議なことに、見る側に回ると、世界の解像度が上がります。ピアスの小さな細工、職人さんの手の動き、人の笑顔の温度。見られることに使っていたエネルギーが、見ることへ戻ってきたからでしょう。

見えるようになったからこそ、次の問いが生まれます。では、この世界をどう味わいつくそうか。

それは、「楽しい!」という時間に生きると決めること。

そういえば、毎日あっという間に過ぎ去り、楽しい!ってなってること、すぐに思い出せない…となっていませんか?私はなっていました。

楽しむには、「楽しい」に解像度を上げていくと面白そうです。

言葉を幅広く持つことは有効です。

例えば、英語で「楽しむ」は細やかに使い分けます。

  • Enjoy:ごく広く、好ましく受け取ること
  • Have fun:場の賑わい、軽やかさ、遊び心
  • Appreciate:価値を理解して、深く味わうこと
  • Savor:ひと口を惜しむように、ゆっくり噛みしめること

日本語にも、同じ読みで二つの文字がありますよね。「楽しむ」と「愉しむ」。一般に、楽は明るく外へ開く楽しさ、愉は心(りっしんべん)に満ちてくる静かな悦びと説明されます。賑やかな宴が「楽」なら、一杯のお茶を前にした静かな時間は「愉」。

この違いがわかると、世界は一気に広がります。楽しい場所を探し続けなくても、愉しみは自分の内側で起こせるからです。

「遊び」のないものは、壊れやすい

ここで、「遊び」という言葉に少し寄り道をさせてください。

車を運転する人なら、ハンドルの「遊び」を知っているでしょう。ハンドルを少し回しても、タイヤがすぐには動かない、わずかな余裕です。これがまったくないと、ほんの小さな動きにも車が過敏に反応して、かえって運転しにくく、危なくなります。

建築も同じです。橋には、気温で伸び縮みする分の隙間(伸縮装置)がわざと設けられています。隙間がなければ、熱で膨らんだ鉄は逃げ場を失い、橋そのものを傷めてしまいます。日本の伝統的な木造建築も、釘や金物で固めきるのではなく、木を組み合わせて、わずかな動きを許すことで揺れを受け流してきました。固めきらないことが、強さになる。

プロダクトの世界でも、部品どうしの「すきま」(クリアランス)がなければ、そもそも組み立てることも、動かすこともできません。

きちんと機能するものほど、遊びを持っている。余白のないものは、強そうに見えて、実は脆い。

人も、同じではないでしょうか。頑張り屋さんほど、予定も、役割も、気持ちも、隙間なくきっちり詰めてしまいます。でも遊びのない人は、予期せぬ衝撃を受けたとき、逃げ場がなくて、折れてしまう。

楽しむことは、人生のハンドルの「遊び」であり、橋の伸縮装置のようなものです。余分に見えて、いちばん大切なものを守っている。

ラテン語圏の「楽しむ」を旅する

ラテン語の系譜をたどると、「楽しむ」の言葉はとても豊かです。

イタリア語

  • godere:楽しむ、享受する。ラテン語の gaudere(喜ぶ)に由来。「人生を享受する」という大人の響き
  • assaporare:味わい尽くす。sapore(味)が語源の、Savorにいちばん近い言葉
  • divertirsi:気晴らしに遊ぶ。軽やかなHave fun
  • dolce far niente:「何もしないことの甘美さ」。余白そのものを楽しむ、イタリアの知恵

スペイン語

  • disfrutar:心ゆくまで楽しむ
  • saborear:味わう。そして saber は「知っている」と「味がする」の両方を意味します

フランス語

  • savourer:味わう
  • se régaler:ごちそうを楽しむように、全身で満喫する
  • jouir:享受する。人生の悦びを受け取る、深い言葉

そしてすべての源流、ラテン語には、こんな対比があります。

  • otium(オティウム):教養ある余暇。ただ休むのではなく、学び、考え、味わう自由な時間
  • negotium(ネゴティウム):オティウムの否定、つまり仕事・商売。英語の negotiation の語源です

古代ローマの人にとって、仕事とは「余暇ではないもの」でした。余暇のほうが主役だったのです。

「遊び」を意味する ludus(ルードゥス)は、同時に「学びの場(初等学校)」も指しました。遊ぶことと学ぶことは、もともと別のものではなかったのです。illusion や prelude も、ludere(遊ぶ)と同じ語根を持つ言葉です。

さらに、キリスト教思想家アウグスティヌスは、uti(役立てる、利用する)と frui(それ自体を喜びとして味わう)を区別しました。何かの手段として使うのではなく、それ自体のために味わうこと。「愉しむ」の核心は、2000年近く前から語られていたのです。

もうひとつ、おもしろい発見があります。sapere は「味がする」であり「賢い」でもあります。味わえる人は、賢い人。味覚と知性は、同じ根っこから伸びていました。

頑張り屋さんにいちばん難しいこと

ここからが、私が本当に書きたかったことです。

頑張り屋さんにとって、いちばん難しいのは、頑張ることではなく、楽しむことです。

頑張ることには、目標があり、成果があり、評価があります。けれど楽しむことには、目標がありません。uti(役立てる)に慣れた人にとって、frui(ただ味わう)は、何も生み出さない時間に感じられて落ち着かないのです。

そして楽しむことは、意外に高度な遊びです。そして今の時代には贅沢ともいえます。

  • 余裕がなければ、味わう間がありません
  • 教養がなければ、味わう対象の価値が見えません。ワインの産地も、器の歴史も、傘職人の仕事も、知っているほど深く愉しめます
  • アンテナの感度がなければ、日常に潜む美しいものを拾えません

つまり「楽しむ」とは、余裕と教養と感度を総動員する、大人のための遊びです。オティウムが「教養ある余暇」だったのは、偶然ではありません。

見る私だから、愉しめる

「見られる私」だった頃は、評価を気にして、楽しむどころではありませんでした。「見る私」になった今、ようやく世界の側に立てます。

だから、頑張り屋さんが楽しむ人になれる入口は、案外ここにあるのだと思うのです。

今日の私への小さな実験を、ひとつ。

何かをひと口、ひと目、ひと触れ、評価せずに、役立てようともせずに、ただ味わってみる。
そして今日の予定に、遊びをひとつ。

今朝の一杯のコーヒーでも、耳元で揺れるピアスの重みでも。assaporare、saborear、savourer。言葉はちがっても、やることは同じです。

見る私は、愉しむ私。遊びを持った人生は、折れずに、しなやかに、もっと広く、もっと楽しくなっていきます。

最後までお読みくださりありがとうございます!

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